7年前の今日、いま6歳のさくらは、産まれてもいなかった。
私は新橋の会社にいました。パパは渋谷の方の会社にいました。
新橋の古いビルの8階は、物凄い揺れ方で、地震とともに打ち合わせコーナーを出て、
会社の受付のところで、受付に置いてあった自転車が勢いよく倒れてきて下敷きになり、
激しい揺れの中、床に横になって動けない状態で、恐怖でいっぱいでした。
いったん揺れが収まり、会社の人全員で、避難場所に移動し、実家に電話し、なんとか繋がったけど、そのあとは繋がらず。
さくらパパとも繋がらず、安否確認がとれず、
姉がハブになり、互いと連絡をとってくれてました。(当時姉は関西の方にいて被害はなかったので助かりました)
その他の連絡はツイッターが機能してくれてました。
その間も地震は続き、自分がさっきまでいたビルは揺れるたびに頭を左右に大きく揺らしていて、
あの状態の中にいたんだな、と思うと、ゾッとしました。
夕方になって各自帰宅命令が出ました。方向が同じ人が固まって帰宅です。
この日はとても寒く、足はかじかみ感覚がなく、一緒にいた会社の人が、私のパンプスが脱げないように、コンビニでガムテープを買って、足と靴をぐるぐる巻きにしてくれました。
新橋から歩くこと3時間。
この状態で歩いて、あと1時間くらいで自宅に着く、ぐらいの場所でした。
でも、もう寒くて寒くて、限界だった。
真っ暗な世田道に、居酒屋の灯りが見えました。
チェーンの居酒屋が開いていて、寒さに凍えて顔中ぐちゃぐちゃだった私に、熱いおしぼりをたくさん出して下さいました。
店主さんは、帰れないのでお店をあけたそうです。
お店は私のように、都心から歩いて帰る人の避難所みたいになっていました。
自宅で私の帰りを待ってくれてるパパに、「居酒屋さんが開いていたので暖をとって帰ります」とメールし、
熱燗を注文したのを覚えています。
居酒屋さんで流れるテレビでは、東北の震災の様子が映し出され、
そこで初めて、この地震の凄まじさを知ることになりました。
今もまだ、震災の被害は残っていて、復興はまだ道半ばだと思いますし、
私たちにできることは限られていますが、
生々しい記憶とともに、まだ震災は終わってないと痛感します。